説明.
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作者 |
初代 本成寺修司未だ、解説がありません |
解 説 |
1998年の夏、関市の宮川町、宮川工業の宮川氏より話が舞い込んだ。それは、和食の総本山四条司家より、お墨付の包丁を発表しようという試みであった。 早速、四條司家の職員方達と宮川氏を交え、会合、話し合いに入った。写真の資料は、その時の走り書きの計画案である。話はトントンと進み、その年の暮れの明治神宮での包丁式にも招待され、寒さに震えながら式を見守った。と、その時、流れるような包丁さばきが一瞬止まったかのように見えた。誰もその動きに気が付いた人はいなかったようだが、後で聞くと、寒さで手がかじかみ、一瞬、盛り箸を落としそうになったと聞く。 鍛造職人も決まり、試作に入った。もちろん、四條司家の要請により、家紋の刻印も作った。白羽の矢が立ったのは、鍛造の達人、三条の本成寺修司。渾身の力を振り絞り、鏡面仕上げの名作が出来上がった。 その好結果を宮川氏に連絡すると、しばらく待ってくれと云う。再度、連絡をとると、なんと、この計画があらぬ方向に頓挫し、無かったことにしてくれと云うではないか。何かの力が作用し、ストップが掛かったらしい。試作代も払えないと云う。試作品は、適当に処理してくれと云う。何とご無体なと思いながら、今日まで手元に置いて来た。 その他、同時進行の中に、岩崎重義翁や飯塚重房氏を巻き込んでの玉鋼式包丁の計画はあったが、幸い事なきを得た。試作代は、泣き寝入りとなっていたが、今回のHPリニューアルを機に放出することにした。 |